■得たもの■
水商売をやっていてどうでした?
と、ふと質問をされた。
残っているものは、「何でも売れる」という自信と「仁義(?)」かなぁと思う。
お酒をお金にすることが仕事ではあるが、これって別にお酒を売る仕事ではない。
単価数百円のジンロを、数千円で出すことには「酒を飲む」事以上の意味がなければならない。
つまり、商品はなく、売っているのは「自分自身」なのだから、無から有を生み出す仕事なのである。
おかげで自分を磨く方法、メッキをする方法が身に付いたと同時に、何でも売れるという自信にも繋がっている。
水商売は完全なる上下関係の下で成り立つ。
上に逆らうことはできないし、下を軽んじてはいけない。
独立した後は、僕にとって「上」の人間は他店の社長である先輩や、その筋の方々だったため、上を立てるということは自然と身に付いた。
独立した後は、僕にとっての「下」の人間とは自分の従業員であるため、彼らの生活、身の安全を守らねばという変な責任感は生まれた。
最近の大学生は、年上の人間と交流が少なく、就職活動でもかなり不利な点が多いらしい。
なるほど、特に男性は、なかなか年上の男性と関わることは少なくなっていると感じる。
現在のホストクラブも上下関係は緩和されているそうだが、これって暴走族が減ったことと同じ理由だと感じる。
上下関係がウザイ。
しかしながら、、、どこかで身に付けなければいけないことではないかなって思う。
無論、1人で働くのならそれはそれで構わないのかもしれない。
しかし、通常世間でそのような仕事は少ないし、また、「関わる」ということに起因する成長を放棄してしまうこともかなり危険であるしもったいない。
年上の人との交流が少ない傾向は、特に男性に見られると書いたが、僕の場合はどうだったのだろう。
ずいぶん若い頃から大人と会話をしていた。
「取調室」で(笑)
これも成長の軌跡である。
さて、先の傾向であるが、男性が年上が苦手なことは何となく理解できるが・・・女性はどうなのだろうか。
確かに、合コンやらバイト先などで年上の男性と会話をする機会が若い女性には多いと思う。
男はアホだから、若い女性というだけで丁寧に扱う。。。
まぁ、交流の機会から考えると女性の方が有利なのかもしれないのも事実である。
が、ちょっと待った。
これは若い女性対年上男性に限られるような気がする。
つまり・・・いかなる場合も女性は女性であることを「使っている」可能性があるのである。
そもそも、通常大人の男性が、二十歳そこそこの女性をきちんと対等に扱うことも考えにくい。
スケベ心の一つや二つあってもおかしくはないと思うのである。
ともすれば・・・若い女性対女性の場合にこそ、その真価が問われる時ではなかろうか。
僕自身、年上の男性よりは年上の女性の方が親しみやすいと感じていた時期もあった。
これって、「若い男性」ってことをどことなく利用してたのかなって思うのである。
つまり・・・自分では気が付いていなかったとしても、年上の男性は親しみやすく「得意」だと考えていても、それって本当の意味で有利だとは限らないのである。
性別に包まれた自分を、同性はそのフィルターを外して接してくる。
多くの同性の年長者と関わり、きちんと向き合えるために必要なものを、少年課や刑事課、先輩やその筋の方から多く学んだ気がする。
■自由と不自由■
『医者やら弁護士やらは、ちょっとお金を稼ぐと「稼いでいる」と付け上がるが、それは本当に大金を稼いでいるのではない。彼らは人生に様々な規制があって不自由に生きている。』
知人の言葉のようです。
さて、『仕事』を収入面から考えると・・・確かに大金を稼げるのやら・・・不安になります。
自由というものを考えると・・・やはり弁護士も規制が多いと思います。
ここで思うのは『不自由って悪いのか?』ということです。
仕事に対して責任があるから不自由になる。
常に自由ということは、その人生に責任がないということに他ならないような気がするのです。
人はその『責任』によって成長すると、僕は考えています。
確かに好きな時に好きなところに旅行にいけて
好きなだけ趣味にも没頭できて・・・色々なことにトライできること。
これは一見人間としての豊かさを象徴しているようにも思えますが、本当に豊かなのかと考えると・・・大きな疑問も生じます。
例えば、妻子が存在したら自由には遊べなくなる。
これは仕事以外での規制です。
特に女性関係での自由はかなり規制されると感じます(苦笑)
ここで感じるのは、その規制は責任を元に発生しているという事です。
僕もそうでしたが・・・多くの女性に「モテル」ということは男性にとって一つの至福の極みであるかもしれませんが・・・そこに最終的な喜びはないような気がしているのです。
(オハズカシながら、これを自己の信念として確立できるようになったのは最近ですw)
つまり、自由はその裏側に無責任が多く存在し、不自由には責任が存在していると考えています。
そしてその「責任」こそが、仕事であれ私生活であれ、自分を満足させる報酬であると感じます。
世の中に自由を約束された仕事ほど・・・無くてもいい存在に近づく気がします。
まぁ、かつて歌舞伎町で働いていた頃、特に従業員だった頃はほぼ100%自由でした。
給料はそんなに高くはありませんでしたが、働いても働かなくてもいい。何に対しても責任など存在せず、まさに「自己責任」の世界。働いた分だけお金を手にすることができる世界でした。
自分でお店を開店して、自由は少しだけ減少しました。
それは恐らく、僕の店で働く従業員に対して責任が発生し始めたことが要因の大部分だと感じます。
しかし、その責任=不自由には、自由であった頃とは比べ物にならないほどの達成感がありました。
不自由は自ら望んだものでした。
しかしながらやはり独立しても「自己責任」の仕事であって、不自由は限りなく0に近かったと感じます。
思うに「自己責任の世界」と自称する仕事の多くは「自分が働いた分だけ収入に繋がる」仕事であると思います。
変動的であるということは、つまり他者(例示すると取引相手などの恒常的関係)を必要としない仕事です。
言うなれば1人でもやっていける仕事ですね。そうでなければ、働いた分だけ・・・という概念は発生しないのですから。
もちろん、収入も良く、時間的な自由も多く、ホストクラブ(自称)経営者という仕事はとても豊かな人生(趣味などで)を送るに有効であったかもしれません。
経営しながら現役でも店に出ていましたが、時間をかけて完全に「経営」のみに転じることも可能でした。
が、やはりその無責任で終わりたくなかったのです。
仕事に対して無責任であれば、きっと「結婚して」責任をもって生きなければならない時にも・・・無責任な生き方をしてしまいそうで(と言うのは多少後付けの理由ですが)。。。
僕が歌舞伎町で働き始めて2年後くらいに、入店から才能(?)が頭角を現したホストさんがいます。
彼は独立して、経営&ホストを続けていましたが、結局経営のみに回ったようです。
残った時間を何に使うか。。。
本当にやりたかった「居酒屋」のようです(^^
今、無責任で自由な仕事をしていても、夢があるならそれでいいのかもしれません。
ただし・・・多くの人は「語るだけ」です。
「今はまだ早い」とか、「準備をしている」とか・・・理由はいくらでも付けられます。
僕が働いている頃の「大学受験」と同じこと。
今は忙しいから・・・そのうち。
まだ時間が無くて勉強できてないから来年また受けよう。。。
きっと、そのときは本当に「大学に行きたい」なんて思ってなかったのだと思います。
本当に望むなら・・・動いているはずですから。
僕がホストを始めて1年経たずに独立したのは、「やりたいこと、やってみたいことはスグにスタート!!」
という僕のスタイルから生まれたスピードでした。
いつまでも「時期早尚」などとグタグタ言っているのは僕の「やり方」ではなかったにも関わらず
いつまでも足踏みしていたのは・・・本当に望んではいなかったからだと思うのです。
■アンテナ論■
何気ない出来事を見過ごしてしまう。
それが誰かにとっては何気ないことではなくても。
結局のところ、自分がどこにアンテナを張っているかということに左右されるのだと思う。
その点、法律家を目指すことは生きていく中で見過ごしたくない多くのことにアンテナが向いていると感じる。
先日の昭和大学の入学希望者募集要項の書類の変更。
容疑者の人権侵害などなど、「そんなこともあったんだ」というレベルでも過ごしていける出来事に対して一つ一つ自分なりの見解を考えること。。。
人のアンテナは、やはり仕事をしていたらその仕事の方向に向く。
医師であればもっぱらそのアンテナは医療に向き
会社員は恐らく自己の業界に向いている。
もちろんそれでいいと思うのだが、同時に・・・そのアンテナの向いている方向が、「人間として」の成長を妨げていることもおおいなぁと感じる今日この頃である。
必死になって働く上で、アンテナをある方向に特化していくのも悪いことではない。
が、多方向にできるだけアンテナを張っていく生き方に僕は魅力を感じる。
それだけの余裕が欲しいと考えていると表現してもいいかもしれない。
何にでも興味関心を持っていたい。
そうでないと「興味がないことはやらない」という言い訳を自分に許すこととなるから。
もちろん、「プロフェッショナル」という意味では・・・多くのことの玄人にはなれないと思う。
いろいろなものに首を突っ込むことは「中途半端」な印象を残すかもしれない。
が、何も得ないで経過していく不利益を考えて比較考量してみると。。。決して悪いことではないと思う。
多くのものに触れる中で、自分は正しいのかということを深く追求できる。
たくさんの知識が入る。
そしてその知識や「異文化とのふれあい」が、更に次の何かを受け入れやすくする。。。
アンテナがある方向に特化している人に多く見られるのが、『偏見』である。
「こういう人は受け入れられない」
「これはこうであるに違いない」
などなど・・・
状況や言葉は多岐に渡るが、仕事以外の面においてもある一定方向に固定されている傾向を感じる。
通常、社会の中で仕事をしていたら・・・多くの「他人」と関わるわけであり、強引にも「異文化交流」をすることとなるが・・・。そうでない場合は・・・かなり危険だと感じる。
また、自分にできないことがあると「それは興味がない」とか、「今は必要ないから」という言い訳が容易く出てしまう。
ちょうど、大学受験を控えた時、「受験勉強は必要だとは感じない。」と言っていた時のことを思い出す。。。
その言い訳は嘘である(笑)
いずれにしても、法律学は人の学問であり
実務は人間を相手とする。
何かに追われる前に、そして追われていても
たくさんのアンテナを持っていたいと思う。
■洪庵のたいまつ■
洪庵のたいまつ
司馬遼太郎氏が教科書として書いた本だそうです。
誰かのために生きること。。。
別に自己犠牲を社会貢献のあるべき姿だとは思いませんが、自分のためだけに生きるということも悲しい生き方であるなぁと感じます。
先日某法律家が出演する番組に、消費者金融との問題解決を専門としている弁護士の先生が出ておりました。
『ここにおられる先生方の中で、恐らく一番稼いでいる』とおっしゃってましたが。。。
稼ぐということは、結果であって目的ではないと、先生をみて更に感じました。
3年でイソ弁50人近くを抱える事務所に成長したという事実は、恐らくライブドア元社長の堀江氏や、近年メディアに多く露出しているデイトレーダーなどの『金本位主義』の輩と同じように感じられるかもしれません。
しかし、根本的なことが違うと感じるのです。
堀江氏に関しては、『会社を世界一にしたい』ということでしたが・・・そこに『自己満足』以外の要素ってあまり存在しないと思うのです。
『何で』世界一にしたかったのか。。。結局企業価値であり、中身のない空虚な存在であったと感じるのです。
トレーダーに関しても同じ。
先に例示した弁護士の先生は、悪徳消費者金融から市民を解放するということが第一の理念であって
拡大に関してもその活動の裾野を広げるという趣旨に合致しています。
何よりも、この仕事『誰もやりたがらない』ということです。
僕はどちらかというと、『貸す方』に多く知り合いがいましたが、あのような方々と喧嘩できる法律家って、やはりすごいなぁと思うのです。
もちろんこれは、法律家=インテリという僕の先入観も多く影響していることですが(笑)
結局、『お金』が先か『仕事』が先かという理論になるのだなぁと感じます。
どれだけ理由を付けても、お金を追っていては得られないものが多いのだと感じます。
さて、冒頭の本。。。
洪庵についての本だそうです。是非拝読したいと思います。
また、多くの人に読んでほしいなぁと思うのです。
『自分が正しい』というのは『法にのっとっているから』という理由以外にもっと必要なことがあると感じます。
それを『倫理』と読んでしまっては少し陳腐になる気もしますが。
それでももっともっと大切にするべきことが多いような気がします。
人に『やさしく』なることは難しいことではないそうです。
訓練したらいいのだと。
友達が怪我をして痛いといえば、その痛みを感じる訓練。。。(だったかな?w)
人の脳は日々の生活で癖ができて、そしてその変化を成長と呼ぶのだと思います。
繰り返すこと、訓練することが成長する唯一の方法だと感じます。
毎日繰り返していることが、一体どんな成長に繋がるのか、それは大きなことだと思います。
自分と違う考え方の人、立場の人、多くの『違う』人と関わって、そして考えて触れていくことが『成長』だと感じます。
『利己的』な人が多い現代に、今一度考えたい課題だと思います。
どうしても理解できない人が存在したら、もしかしたらそれは、自分の訓練が足りないだけなのかもしれないのですから。
■人生設計■
弁護士になりたい
きっかけは簡単なことだったと思う。
司法試験に合格したら、今までの人生をリセットできるかもしれない。
素敵な人生が待っているに違いない。。。
それだけのことだった。
ふと気がつくと、いつの間にか弁護士として活動したいと思うようになっていた。
同じことのような気がするかもしれないが、この二つの概念は全く違うこと。
昨日、杉並の保育園入園拒否訴訟において、仮執行の判決が下りた。
「保育園に通えないことによる不利益は、損害賠償金では補えない」
確かこのような判決だった。
僕もいつかこんな仕事がしたいと考えている。
大学のゼミで、国や行政を相手取る裁判をよく学んだが・・・そこにいる弁護士はどちらかというと運動家のような印象を持った。
もちろん、法律家として例えば「いじめ」事件を扱い、運動としていくことでその事件を周知させ、国内から同じような問題を無くそうという考えもあると思う。
しかし、まずは「その人」ありきであるべきで、後援会のようなものを携えて訴訟に望むのはずれている印象を持った。
守りたい権利がある。
主張したいことがある。
それが後に社会に影響を与えて、同じような不利益を被っている人が減ればいいけれど
そうでなくても構わない。
必要とされたら、その被害を被っている人一人一人の弁護をしたらいいと思う。
どうせ日本は「判例」ありきだから・・・勝てば結果的にその他の裁判にも影響を及ぼすし。。。
お金にならなくてもいい。
生活できればそれでいいと思う。
これが僕にとって「今」思う理想の生きかただと、最近確信しているのです。
■関係■
何かをしたいと思うときに、彼女の許可を取らなければならないなんておかしいこと。
今までも、そして今でも思う。
だからこそ、きちんと話すべきときには話せるような関係になりたいと思う。
昨夜、昔に付き合っていた事のある人から寝耳に水のメールが来て
迷わずにその内容を伝えることができたこと。
当たり前なのかもしれないけれど。。。
僕自身のスタンスが確立されつつあるなってことを実感した。
彼女は時々、僕の言動が誤解を招くという。
論理的ではなくとも、感覚的にその趣旨は理解できる。
でも、それは僕にとって、僕と関わった人間に対する自然な行動だと
本当に思う。
何より大切なのは、誤解をされたとしてもそこにきちんと「僕」がいたなら
それは何も不条理な話ではないってこと。
逆に、そうでなければいけないってこと。
僕にとって、関わった人を何の他意も無く人としてその関係を保つなら
それはある意味で僕にとって大切なものでもあるのだから
大切な人にはきちんと伝えないといけなかったんだなぁって思う。
何かを隠さなければいけないような関係に
きっと、君を傷つけてまで求める何かは存在しないのだから。
■大切■
失って初めて分かる
よく聞く言葉です。
大切な存在だった誰かを、失ったときに初めてその大切さに気が付く
よくあることなのかもしれない。
少なくとも僕にとってはよくあることだった。
本当に大切なら、そのときに大切にしたらいいのにって
よく思っていた。
どこかにリセットがあったら、きっとそのマイナスのスパイラルから抜けられるとそんなことを信じていた。
受動的に。
そんな都合のいい話なんてないって、心のどこかで思っていたけれど
きちんとするということの真意が理解できた。
きっとこれからの人生で、僕は大切なものを見失わない。
■懐かしいこと、ずっとできなかったこと■
ずっと一緒にいるんだろうなって思った時期もあった
それは確信にも似ていて、そんな約束をしたこともあった
沢山の時間が流れて
沢山のできごとがあって
そして今年で9年が経った。
青い感情もいつの間にか淘汰されて淘汰されて
二度とまた燃えることはない。
君がもしもその感情を抱いていても
僕はもう応えないよ
君を「思う」ことはあっても、その場所にいた君はもういない
僕に中に、君が座ることができる椅子はもうないんだよ。
僕には大切なものがあるから。
君からの意味の分からない意味のよく分かるメールに
僕はもう返信をしない。
■価値観の限界■
自分とは価値観の違う、異質なものに対してどのような対応をしているのかということが友人達との会話の中で議題となった。
もっともっと若い頃、高校の頃なんかは、「異質なもの」には近づかない・・・というのが多かったようである。
高校卒業後そろそろ10年たってみて、やっと「そういう生き方の人もいるのね」って思えるようになったというのが多数説であった。
比較的早い段階から「色々な種類」の人間と接していたという自負がある僕としては、もっと早い段階で異質なものには触れていたので、多数説よりももう少し進歩(?)しているような気がするが(笑)
結局、メインのテーマは「男女関係」において「異質」だったら???ということだったのだけれど、結局誰かの価値観というものは、その相手とどのような関係になりたいのか、または、ならなければならないのかということで受け止め方や許容範囲って変わってくると思う。
「どうでもいい」関係の相手なら、どんな価値観だろうと、どんな家庭だろうと、許せる範囲も広がるし、逆に狭まる。
「どうでもよくない」関係にしたいから、こだわるし、逆に許せることもあるんだと思う。
例示をしないと矛盾しているような議論の帰結なのだけど・・・
・・・旅行帰りで激疲れているので・・・改めて書き直します(予定)